「んでこんなにモヤモヤするんだろう」
「もっと頑張れば、何かが変わるのかな」
「いや、もう頑張りたくない。けど、立ち止まるのも怖い」
これは、私が40代に入り、よく感じていた感情だ。
一通りやってきた。仕事も、家庭も。
「きちんと」してきた。
けれど、なぜか心の奥がぽっかりしている。
この記事では、私自身が40代で大学編入試験に挑戦し、「モヤモヤの正体」に向き合った経験から、
中年期の「空虚さ」や「納得感のなさ」をどう乗り越えるかを、正直に書いてみたいと思う。
頑張ってきたからこそ、感じる虚しさ
20代の頃は、あんまり何も考えていなかった。目の前のものが楽しければそれでよかった。
仕事も、恋愛も、結婚も、子育ても。やることが常にあって、それに夢中になれた。
30代になると、少し余裕ができてくる。責任も増えるし、成果も出てくる。
でも、毎日がタスクの連続で、立ち止まる暇はあまりなかった。
そして40代。
ようやく少し落ち着いてきたところで、ふと立ち止まる。
周りを見渡してみると、それなりに満たされているはずの環境がある。
それなのに、心がどこか満たされていない。むしろ、空虚な気さえする。
「頑張ってきたのに、報われた感じがしない」
「もう一度やり直したいほどじゃないけど、今のままじゃ嫌だ」
これが、いわゆるミッドライフ・クライシスなのかもしれない。
なぜ「満たされない」のか
「頑張ってきたのに」という言葉の裏には、期待がある。
もっと認められるはず。もっと自由になれるはず。
もっと、満足できる未来があると思っていた。
だけど、現実は思ったほど変わらない。
立場や役割は変わったのに、心の中の「自分」は、どこか置いてけぼりのまま。
「自分の人生として、私は何を望んでいたんだろう?」という問いに、ちゃんと向き合ったことがなかった。
それが、満たされなさの正体だった。
「私」が不在だった日々
40代になって気づいたのは、「私」という人間が、どこかに行ってしまっていたこと。
いい母であること、できる社員であること、常識的であること。
その“仮面”を完璧にかぶることが、大人の証だと思っていた。
だけど、その仮面の下にいる「私」は、ずっと小声でつぶやいていた。
「本当は、こういう仕事がしたかった」
「本当は、もっと自由になりたい」
でも、そんな声に耳を傾ける余裕も、勇気もなかった。
「もう遅い」という思い込み
何かを始めたいと思っても、「もうこの年だし」「今さら変えても」と、すぐに“年齢”がブレーキになる。
特に女性の場合、「若さ」に価値を置かれてきた社会の中で、「もう遅い」と思ってしまいやすい。
だけど、よく考えてみてほしい。
この先の人生、何年ある?
40代であと40年生きるとしたら、まだ人生は“後半戦が始まったばかり”。
20歳のときに「もう手遅れだ」と言う人はいない。
40歳でも、それは同じはずなのに、なぜか私たちは「自分の可能性」にフタをしてしまう。
私が選んだ「学び直し」
そんなモヤモヤの最中、私は大学に編入するという決断をした。
周囲には驚かれたし、賛否もあった。
でも、それ以上に、自分の中にあった“諦め”にもう一度火を灯す必要があった。
勉強は、決して「現実逃避」ではなかった。
むしろ、本当の自分を取り戻すための「再起動」だった。
新しいことを学ぶ。若い学生たちと話す。
やったことのないプレゼンに挑戦する。リサーチして論文を書く。
何もかもが「やらされた勉強」ではなく、「やりたくてやってる勉強」だった。
それだけで、心が少しずつ満たされていった。
モヤモヤの正体は、「未完了」な自分
「頑張ってきたのに満たされない」感覚は、
決して“わがまま”ではないし、“贅沢な悩み”でもない。
それは、まだ満たされていない願いが、確かにそこにあるという証。
誰かの期待じゃなく、自分の本音に従って動くこと。
完璧な答えがなくても、一歩踏み出すこと。
その積み重ねが、「私の人生」に戻っていくプロセスなんだと思う。
おわりに:モヤモヤは、悪者じゃない
モヤモヤするのは、ちゃんと生きてきた証。
自分をごまかさず、立ち止まって考えている証。
そしてそれは、「もう一度、自分を生き直す」チャンスでもある。
私もまだ、完全に満たされているわけではない。
けれど、これを読んでくれたあなたが、もし今、
「頑張ってきたのに、なんだか満たされない」と感じているなら、
そのモヤモヤを、どうか否定しないでほしい。
それは、「本当のあなた」からのメッセージかもしれないから。
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