40代になって、ふと感じることがある。
自分の考え方や価値観が、妙に凝り固まってきたような気がするのだ。
同じ職場、同じ人間関係、同じような会話。
毎日の仕事に追われ、気づけば1年、また1年が過ぎていく。
それなりに経験も積んで、自分なりの「判断基準」や「正解」も身につけた。
でも──
それは本当に“社会全体の正解”なんだろうか?
それとも、たまたま自分が属している「小さな社会」の中だけのものなんだろうか?
1つの場所にいると、その世界が「全て」になってしまう
社会に出て長くなると、どうしても“偏り”が生まれる。
たとえば、職場。
そこでは、年齢・役職・立場など、明確なヒエラルキーがある。
若手のアイデアよりも、「経験のある人の判断」が優先されることが多い。
効率が重視され、「まずは前例通りに」が合言葉のように口にされる。
もちろん、それは組織をまわすために必要な考え方だ。
だけど、ある時ふと思ったのだ。
「私のこの価値観って、今の世の中に通用するのかな?」
「私が“常識”だと思っていることって、本当に正しいのかな?」
社会は、常に変化している。
けれど、長く1つの世界にいると、その変化が見えづらくなる。
狭い世界の“正解”が、あたかも“全世界の正解”だと錯覚してしまうのだ。
大学という異世界に飛び込んで、世界の“解像度”が変わった
私は40代で大学に編入した。
職場ではそこそこ評価され、後輩の指導もしていた。
でも、自分の成長が止まっている気がして、いてもたってもいられなかった。
色んな学生がいたのも確かだが、ほとんどの10代、20代の学生たちは、私を1人の“学生”として受け入れてくれた。
レポートに追われ、発表の準備に焦り、ディスカッションで真剣に語り合う。
若い学生たちから教わることの方が多かった。
異なる世代に触れることで、自分の「思考のクセ」に気づく
彼ら彼女らは、まさに“これからの社会”をつくっていく世代だ。
「今」を生き、「これから」を形づくる存在。
その人たちが、何を考え、どんな夢を抱き、どんな行動をしているのか。
それを肌で感じることは、ミドル世代にとってものすごい刺激になる。
「え、そんな考え方があるの?」
「その行動力、私にはもうないかも…」
「そんな夢、私には怖くて言えないな」
大学での会話には、そんな驚きが山ほどある。
正直、たまにイラッとすることもある。
「甘いな」「そんなに世の中、うまくいかないよ」と思うことも。
でも、そこが大事なのだ。
そうやって「自分が持っていた常識」がゆさぶられる経験こそ、
思考の柔軟性を取り戻すチャンスになる。
ミドル世代は「教える側」ではなく、「学び続ける側」でもある
大人になると、つい「教える側」になってしまう。
若い人にアドバイスをし、経験を語り、ミスを指摘する。
もちろんそれも必要な役割だ。
でも、大学にいると、自分が「教わる側」に立つことが多くなる。
若い人の目の付け所や柔軟さ、スピード感に、何度も驚かされる。
たとえばSNSを活用した活動の広がり方、情報収集の速さ、
情報の見極め力、表現力、チームワーク──
彼らが持つスキルやセンスは、完全に“今”のものであり、
私たちの常識や経験とはまったく違うところにある。
「私たちは過去を生きてきたけれど、彼らは未来を生きている」
そう思うと、年齢に関係なく「学ばせてもらう」という姿勢が自然に持てるようになる。
これは、社会だけにいたら、なかなか持てなかった感覚だ。
社会と大学を行き来することが、自分を“生き返らせる”
大学と社会。
どちらかが正しいわけでも、どちらかが優れているわけでもない。
でも、この2つを行き来することで、私は確かに“息を吹き返した”。
社会での経験が、大学の学びに深みを与え、
大学での発見が、社会での自分の行動に新しい視点をもたらした。
今では、私の中に2つの視点がある。
・「過去を知る者」としての冷静な目
・「未来を見つめる者」に学ぶ柔軟な目
この2つを行き来することで、人生はずっと面白くなる。
最後に──一歩外に出るだけで、世界は変わる
社会に長くいると、知らず知らずのうちに「自分の世界」が固定されてしまう。
でも、その枠を壊すのは、実はそんなに難しいことじゃない。
一歩、外に出てみる。
一歩、違う場所で学んでみる。
異なる世代の言葉に耳を傾けてみる。
それだけで、自分の中の“空気”が変わる。
「大学で学び直すなんて、今さら?」
そう言う人もいるかもしれない。
でも、私は胸を張ってこう言いたい。
「今だからこそ、必要なんだ」と。
40代・50代──
人生の折り返し地点で、もう一度“柔らかい思考”を取り戻すために。
そしてこれからの社会と、真正面から向き合うために。
大学と社会を、自由に行き来できる人こそ、
これからの時代をしなやかに生きていける人だと、私は思っている。
コメント